雨が降っていた。抗う間もなく酷く、酷く。顔を肩を背を、刺すように降り続ける。
 昭南市。この地は熱帯に属する。




Side Kusaka




 不思議とよける気にならなかったのは、なぜだろう。慟哭に気付かなかったわけではない。それでも、降り注ぐ雨同様、何の用意もせず受け止めた。

 殴ったその同じ手が差し出される。この手に私は自分の存在ごと、救われたのだ。
 あの冷たい海から。死の淵から。

 あなたは本当は、まだ、生まれてすらいない。生まれてすらいない人間に助けられた私もまた、本来存在してはいない。
 我々は、存在自体が既に、禁忌なのかもしれない。
 こうして同じ地に立っていることなどありえないのだ。しかしあなたは私を殴り、そして私はあなたを転ばせた。

 あなたを転ばせた時の物理的な感覚。これを夢だと言うのなら、この頬の痛みは何と呼ぶのだろう。
 痛みは確かに此処にある。あなたのそのこぶしが生み出した痛みが。それだけが事実。痛みだけが、この存在を確認させる。

 寄る辺を失い、それでも生きているとはなんとあやふやなことだろう。


「……すまない」
 前を歩くあなたが呟くように言った。
「なぜ、よけなかった? 仮にも海軍将校サマじゃねぇか。よけられたんじゃないのか?」
 ―――ああ、この人は、人を殴ることに慣れていないのだ。殴られたら痛いことを知っているから、人を殴ることの出来ない人間なのだ。

「痛みは、存在を感じさせる最も有効な手段だ。あなたの言った通り。私はあなたの意向に添ったまでだ」
「だからって、簡単に殴られるな。いつか自分の首を絞めるぞ」
 まるで子供のようだった。内包する意志についてゆけない身体に苦悶する幼子のような。
 殴った己がそれを言う矛盾に苦しんでいるような表情であなたは私に向き直る。

 おそらくどんな言葉を尽くしても伝わらないだろう。
「私だって簡単に殴られたわけではない。あなたにだから、殴られた。痛みは―――」
 言葉を遮るように、また同じ手が伸びて私を引き寄せる。私を救うのも殴るのも、抱き寄せるのも同じ、手。


「……もう、痛みなんかで、確かめるな」

 角松二佐……あなたの表情は見えない。雨かも定かでない水分で視界がぼやける。しかし今、互いの存在を確かめさせているのは痛みではない。


 揺らいでいたのは、私も同じだったのだ。





(050222)