「俺は音也。一十木音也。ねぇ、きみもうちにおいでよ!」
 最初にかけた声に返事はしてもらえなかったけれど、初めて会ったあの日のことも、あの日の瞳も、きっとずっと覚えている。




synesthesia doll.(1)




 引き取りたい子供がいるのだとおっさんが言った。
 おっさんは早乙女学園の学園長だ。早乙女学園は俺みたいな保護者のいない子供がたくさんいる、いわゆる孤児院ってやつだ。おっさんはかなり変わっている。言動も突飛だし、急に空から飛んできたりする。だけどいざという時にはやっぱり頼りになる。俺たちみんなの父さんみたいな人だ。俺たちはおっさんのことを尊敬している。
 そんなおっさんが引き取りたいと言うのだ。出来ることを手伝いたい。だから、俺が迎えに行くことにした。

 誰がどんな風に声をかけても手がつけられないのだと聞いた。近付けば暴れ出して、遠巻きに見る大人達に背を向けてたった一人、膝を抱えて絶対その家から出ようとしないのだと聞いた。
 男の子だからきっと言うと怒るだろうけど、一目見て綺麗だと思った。長い睫毛も、意志の強そうな大きな緑の瞳も、引き結ばれた小さな唇も全部、造り物みたいに綺麗だった。
 少し毛先に癖のある髪がぼさぼさになっていて、その様子はこちらを睨みつける強い瞳に似合っていたけれど、せっかくきらきら光る金髪なのに勿体無いなと思った。

 頑として動こうとしない彼をどうにか連れ出そうと毎日毎日通った。
 いつかの自分みたいだった。捨てられたって思い込んで、優しくされるのが怖くて、なんでもかんでも噛み付いて、小さく丸まってた時の。
 少しずつ近付いて、少しずつ触れられるようになった。傷つけないよ。怖くないよ。捨て犬みたいだった頃の自分がされた優しいことを全部思い出して、おんなじことをした。
 毎日毎日。おはようって挨拶をする。どんな物が飛んできても驚かない。どんなに睨まれても、俺は笑う。楽しかった話をする。失敗した話をする。面白かった話をする。困った話をする。嬉しかった話をする。たまに歌う。また明日ねって手を振る。それからまた明日、おはようって挨拶する。
 そうして何日も通い続けた。物が飛んでこなくなった。目つきは鋭いけれど睨みつけるような視線ではなくなった。
 ご飯を食べてくれるようになった。それっぽっちであんなに動けるエネルギーがどこにあるんだろうってびっくりするほど少しだけしか食べなかった。
 小さくて綺麗な砂糖菓子なら機嫌良く食べてくれることに気付いた。そうは言っても剣呑な目つきはそのままだけど。嬉しかった。
 俺の手から受け取って、もそもそと食べる様子は可愛かったし、その頃には嫌そうな顔をしながらでも髪の毛を洗わせてくれるようになった。
 ぱさぱさだった金の髪がふわふわと柔らかく揺れるようになってもきつい目つきは相変わらずだったけど、もう一度聞いてみた。うちに、おいでよ。
「おっさん、ああ違った、学園長はちょっと変だけど器のでかい、すっごい人だし、きっと楽しいからさ。ねっ、砂月」
 殴られても良かった。どんなに暴れてもどんなに物を壊しても、人や動物のことをほんとのほんとには傷つけないって知っていたし、こんなに近付いても怒られないようになったから。名前を教えてくれたし、名前を呼ぶことを許してくれたから。だから、そろそろ頷いてくれるんじゃないかって。
 あの宝石みたいな瞳が揺らめいて、唇が何かを言いたげに開くのを見て俺は待った。
「あいつを、探してほしい」
 一度唇を噛んだ後、小さく息を吸って俯いたまま呟くように砂月は言った。あいつがいなくなったから、俺は。
 初めて見る表情だった。今にも泣き出すんじゃないかと見ているこちらが苦しくなってくるほど辛そうなのに、だけど決して涙を零すことはなかったから、だから俺はその小さな身体を抱き締めた。
「俺が見つけてみせるよ。絶対に、探し出す。だからお願い」
 そしたらきっと、うちにきて。



 * * *



 写真の中にいたのは今のあの様子が信じられないくらい穏やかに笑う彼だった。
「お探しの子は彼じゃないかな?」
 並んで座る、まるで双児のようにそっくりな少年を指してその人は言った。


 砂月には小さい頃の記憶がないのだと言う。忘れてしまったのか、最初から覚えていないのかは分からない。ただ、砂月が自分を自分だと分かった時、記憶が始まった時にはもう、”あいつ”がいて、いつも一緒にいたからきっと自分は”あいつ”といるのが当たり前なんだと思っていた。だけどある日突然、気付いた時には一人になっていたと言う。
「悲しい時、怒っている時、苦しい時に、いつでも一緒にいたはずなのに、突然いなくなった。俺は何も分からなくなって、あいつがいないなら、あいつじゃないなら、全部が敵みたいで、俺は」
 苦しそうに、訥々と話すのにやっぱり涙は流さないから、俺が泣き出しそうだった。置いて行かれるのは悲しい。ひとりぼっちで途方に暮れて、世界はこんなに広いのにって空を見上げてまた俯くのは苦しい。
 俺は街中を駆け回った。砂月とそっくりなプランツ・ドールを探して。
 プランツ・ドール。この街の人間なら誰もが知っている、おとぎ話にも似た噂。人形なのに生きている、不思議な不思議な存在。それが砂月の言う”あいつ”らしい。
 まるで天使のように美しい姿をしていて、持ち主には極上の微笑みを見せる生きた人形。しかもどんなに大金を払ってもプランツ自身に選ばれなければ持ち主になることは出来ない。
 そんな夢物語を辿って行き着いた人形屋には店主だと微笑む、健康そうな肌の色に似合わない、夜の匂いのする人がいた。
「そう、この子! この子がきっと砂月の!」
 まるで双子のように並んで写った写真に向かって大きく頷いた俺に反してその人は気の毒そうに続けた。
「でもね。転売記録はないんだよ」
「え…」
「うちを介さずやりとるするケースもあるからね」
 同じモデルならこの子なんだけど。奥から連れてこられた少年は瞳を瞑って眠ってはいたけれど確かに写真の中の人形にそっくりで、それから勿論、砂月にもとても似ていた。
「でも、代わりじゃきっと、駄目だよね…」
 見つけられたと一瞬でも喜んだ反動で思わず俺はがっくりとうなだれた。
 不思議な人形屋の不思議な店主は、誰も呼ばない呼び名で俺を呼ぶ。ねぇイッキ。
「彼に、此処に来てもらえないかな? ちょっと、気になることがあるんだ」



 * * *



 なつきへ
 おれはにんぎょうやにいく。さつき


 見つかったわけじゃない。でも、君達の写真を持っている人形屋があったんだ。だから、一緒に来てほしいんだ。探すヒントがあるかもしれない。俺の言葉に少し考えた後、絶対に戻ってくるんだよなと念を押してから砂月は頷いた。
 俺が此処にいないうちにあいつが帰ってくるといけないから。そう言って書き置いた手紙は平仮名だけの不器用な文字が並んでいて、一生懸命に書き付ける様子は帰ってくることを祈っているみたいだった。
「なつき、って言うんだね」
「那由多の那に俺とおんなじ月だ」
「なゆた?」
「すげぇいっぱいって意味だ」
「へぇ」
 不思議な気持ちだったけれど嬉しかった。どんな人間のどんな言葉にも、頑なに家から出ることのなかった砂月が俺の隣で歩いている。
 外の光の中でも彼は綺麗だった。木の枝が作る細かな光に目を細めて少し不機嫌そうにして見せるのがおかしかった。
 砂月があの家を離れなかったのは、いつか戻ってくるって信じていたからだ。それなら見つけられさえすれば、プランツと一緒に学園に来てもらえば良いやと思った。
 ねぇいつか、サッカーをしようよ。おっさんのサプライズに毎回驚かされて、一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、眠ろうよ。プランツを、那月を見つけて、一緒に過ごそうよ。楽しい想像をして、だけど俺はまだそれを言わない。
「俺じゃ、どの子も目を覚まさなかったんだ」
「プランツは持ち主を選ぶからな」
「うん。まぁ買えないから良いんだけど、でも目覚めてくれたらせめておんなじモデルの子をあの家に連れてこれたのに」
「そしたら俺は多分お前を殴ってた」
「分かってるよ。絶対に彼じゃないと駄目なんだもんね」
「ああ。初めて見た時に分かったんだ。こいつだって」
 こんなに砂月は大事にしていたのに、那月は一体何処に、誰が連れて行ってしまったんだろう。



 * * *



 人形屋に入ってまず俺は驚かされる。砂月が一歩店内に入った瞬間、空気がざわめいて、俺の時には微動だにしなかった人形達が微笑んだように思ったからだ。
「やっぱり人形みたいに綺麗だからかなぁ」
 ぽかんと口を開けてそのまま立ち尽くしそうになった俺を無視してすたすたと砂月は店の奥に進み、あの同じタイプだというプランツの前に立った。
 砂月とそっくりなプランツは、だけど砂月が見せたことのないような柔らかい表情でふわりと笑う。
「ほんとにそっくりだね」
 写真で見るよりも幻想的な景色だった。きっとこれが那月なら、もっともっと素敵で優しい光景なんだろう。
「そっくりだった。双児みたいに、出会った時からずっと、ずっと」
「さつき…」
 唇を噛み締めてまた俯いた砂月に向かって俺が足を踏み出すより先にプランツが手を伸ばした。幼い少年の姿なのに、艶やかで、優しいよりももっと大きい、包み込むみたいな表情だった。
「お前は優しいし、俺や那月にそっくりだけど、やっぱり違うんだ。俺が全部引き受けて、だから那月はもっともっと、何も知らないみたいに笑うんだ」
「そう、人形みたいにね」
 早かったねイッキ。かけられた声に振り向けば此処の店主と、それから。
「神宮寺。つまり彼が、そうなのか」
 一緒に現れたのはまだ若そうなのに和服姿の似合う、凛とした人だった。
「あ、あの」
「ごめんねイッキ。こいつ無愛想だけど同業者なんだ。プランツとプランツ専用のミルクはね、うちと、こちらのすかしたマスターの店でしか扱ってないんだ」
「すかしてなどいない」
 むっとした様子のその人を無視して、店主はこいつの所に相談に来ていた人を呼びに行ってたんだよと言った。
「やっぱり俺の思った通りだ。砂月ってイッキが言った時にもしかしてって思ったんだよ」
「え、あの、どういう…」
「神宮寺、きちんと説明してやれ」
「人形みたいにってどういうことだよ」
 気がつくと砂月が俺の隣で二人を睨みつけていた。
「まだ、思い出さない?」
「なんのことだよっ!」
 噛みつかんばかりの勢いの砂月に全く臆することなく言った。きみが、愛されるだけの存在だってことをだよ。
「入っておいで」
 シノミー。呼ばれた声に応じるように扉が開く。
「え、うそ…誰…なんで…砂月とおんなじ、顔…」
 いつかと同じ、砂月の見せる剣呑な瞳の色に少し恐れが混じっていて、俺がしっかりしなくちゃって思ったはずなのにみっともなく狼狽えてしまう。
「僕が、那月なんです」
 無意識にだろうか、砂月がぎゅうと俺の手を握ったから、その強さの所為で夢じゃないことを実感してしまう。
 現れたのは、俺よりも背が高い、だけど砂月やあのプランツとそっくりな男の人だった。





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