四ノ宮牧場の片隅に狐が現れるようになったのは神宮寺レンが此処に滞在するようになってからだった。しかし実際はレンが一人でいる時にしか、狐は現れない。 「今日も来たのかい。さすが北海道だね」 シノミーは不思議がっていたけれど、とレンは肩を竦めながら狐の頭を撫でる。 狐は鳴かない。名を真斗という。真斗は人から見れば化け狐である。しかし元来は人の前になど姿を現すことはない。神と物の怪の間の存在だからだ。 真斗は鳴かない。言葉を話すことはない。レンが一人でいる時にだけ、ただ傍にいる。 incognite. 真斗が初めてその子供と会った時、最初は変わった毛色の子ぎつねだと思った。こがねの髪が緑の中で揺れていて、どこぞの里からの客人の子だろうと考えた。 森の奥深くに至る手前、途方に暮れた様子で立ち竦む子供の目の前にがさりと真斗は姿を現した。突然現れた狐面の男を前にして子供は大きく瞳を開く。 幹から幹を駆けるすべも未だ知らぬのならば教えてやっても良いだろう。そんなことを考えていた真斗だったが、面の下で小さく息を飲んだ。 「なっ、なん…だい? ひと? きつね?」 迷子であることに間違いはなかったが、これは狐の子ではない。この瞳は、この薄い青は自然の中にはない。 「人間の、迷子か」 迂闊だったと内心で舌を打ったが姿を現してしまった以上は致し方ないと話し掛ける。 「シノミー…いや、四ノ宮の牧場に、帰らなきゃいけなくて」 「それならば反対だ。こちらに来てはいけない」 「そっか」 日本の、こんな自然の中に来るのは初めてだったから。そう言って目を伏せた拍子に落ちた長い前髪が金色に光って、真斗はやはり狐の子のようだと思った。 人の子とは言えこのまま森の奥へと踏み入れさせるわけにもいくまい。 「……道が分かる場所まで連れて行ってやろう」 言えば子供は驚いたように顔を上げ、またあの薄青い瞳で真斗を見た。 四ノ宮の家に預けられているのだと子供は語った。父さんが、俺の父さんだって分かるまで。 「人間は厄介だな」 同じ種族の子供ならば全て等しく慈しんで育ててやれば良い。種族が違えども等しく森に生きるならば同じく育てるだろう。それが叶わないほどの危険が迫れば捨て置く合理さを取るけれど、感情や損得やそんなものに左右はされない。 真斗が言えば子供は小さく笑った。それは素敵だ。 小さな体躯、零れ落ちそうな大きな瞳に似合わぬ大人びた笑みだった。 暫く二人で歩き、ここを真っ直ぐに抜ければ人の道だと真斗は指し示した。 「此処で俺に会ったことは誰にも言ってはならない。お前のような人の子と関わったなどと知れては俺は狐の掟で裁かれる」 「掟?」 「ああ、お前にも祟りが降りかかるだろう」 「狐の掟で、どんな目にあうんだ? 痛めつけられたり、殺されたり、する、のか?」 少し脅かせばこのまま怯んで逃げ出すだろうと考えていたのに、子供の揺れる瞳が自分のことよりも相手のことを心配しているようで真斗は驚かされる。人間とは皆一様に己に降りかかる災厄にだけ怯え、心を痛めるものだと思っていた。 「名は?」 「レン。ファミリーネームはじんぐ……」 ざあ、と木々が鳴いて後から風が吹き抜ける。化けた狐は人に顔を見られてはならない。レンが名前を言い終わらぬうちに狐の面が視界を遮り、真斗はその姿を消した。 * * * どうしてだかあの日の子供が気掛かりで、真斗は四ノ宮牧場へと向かうようになった。 人の形をとって、人のふりをするよりも、ただの狐に化けるほうが真斗にとっては簡単だった。狐の身体では人語を話すことは出来ないけれど、狐の言葉は人を化かす。きっと傷付けてしまうから、そちらのほうが真斗には良かった。 「シノミーには、さつきってのがいるんだ。さつきはいないけどいる。いつも一緒に、シノミーを守っている。原因は知らないけど、そいつはシノミーの弱さで強さなんだ。俺は笑えない。俺もほしかったから。羨ましかったから」 お前が良ければだけど、と前置いてレンは狐を"さと"と呼ぶ。 真名が暴かれてしまったのかと真斗は肝を冷やしたがそうではなかった。 「此処はふるさとの歌の世界みたいだからね」 「マサ、帰ってたんだ」 レンの元から戻った真斗を紅葉にはまだ早い里で橙色が迎えた。 「ああ、一十木か」 「こがねの色をした小さなけもの。でしょ? 人間なのに、マサがこんなに気にしてるなんてよっぽど好きなんだね」 「好き? まさか。いや、俺にも分からん。だが……」 真斗が自らの手元に視線を落とす。相手は手にした面で全てを悟ったらしい。 行きなよ。かけられた声に驚き顔を上げた真斗を紅の瞳が真っ直ぐに射抜いていた。 「帰っちゃったんでしょ。じゃあ一緒に行けば良いんだよ。マサが行きたいなら、どこにだって。調伏なんかされなくたって、とっくにあの子のものなんだよ」 「なにを馬鹿なことを」 「大丈夫だから。マサはさ、俺と違って人といられる。人よりずっと長く生きる俺達は、どうしたって別れなくちゃいけないんだから、その日まで、ほんの数十年。まばたきほどの時間だけれど、だからこそ、一緒にいなよ」 橙の獣。名は一十木音也。一にして十全の劫火が全てを焼き尽くす音そのもの。人とは相容れぬ火の物の怪。それでも人が好きだと歌うあやかしの子。 「俺はいつでも此処で歌ってるから」 真斗は小さく礼を言い、駆け出した。 ――帰らなくちゃいけないんだ。 鳴かない狐を相手にレンは語った。 ――お前あの時の化け狐だろ。 ――俺に付き合ってただの狐のふりしてくれてたんだろ。勝手に名前つけてごめんな。 面を狐の頭に返し、レンは立ち上がる。 「ありがとな。さと」 小さな背にむかって思わず真斗は人の形をとる。いつかと同じように狐の面をつけて。 「まさと、だ。ほんとうの、名前。真名を知ったお前が調伏すれば良い」 しないよ。振り向くことなくレンは言った。 「俺は、誰も、なんにも、縛らない」 だから帰ったのに、だけど背中を押されて、あの子供を追ってしまう。 まばたきほどだと笑った時間。それでも音也は真斗を送り出した。遠く、歌が聞こえるから真斗は森を抜け、誰より上手く人の姿に変わる。 あの時振り向かなかったから、人の姿をお前は知らないけれど、俺は。 人に化けて、人を化かして、会いに行く。 ▲ incognite. (匿名(者)・微行者)
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