視界が反転して、次に見たのは白い天井だった。それから濃紺の髪が視界に入って、背中に当たる柔らかなベッドの感触とは反対に強く掴まれた肩に痛みが走り、音也は顔をしかめた。冗談が過ぎると文句のひとつでも言おうと唇を開きかけて躊躇った。
 自分を見下ろすトキヤの瞳に何の色も見いだせず小さく息を飲む。怒っているのだと反射的に思った。
「……っ、ごめん」
「なにを謝る必要があるんです? 貴方に落ち度はなにもない」
「でも、トキヤ……」
「ただ、私のものになって下さい」




出来心の檻




 どうしてこうなったのだろう。トキヤはぼんやりと、横たわる音也の姿を見つめていた。気絶した音也を放置して部屋を出たその時のまま、ベッドの上の状況は、惨状は変わっていなかった。
 誓って、計画的だったわけではないと言える。打算的な考えでこうなることを狙っていたわけではない。ほんの出来心なのだ。しかしそう語るには取り返しがつかない。ただ、要因がいくつも重なってしまった。
 シャイニングを除けば、トキヤがHAYATOだと知っているのは、学園内でたった一人、音也だけだった。トキヤは音也の生来の人の良さも、アイドルへの憧れも気付いていたから、同室者である以上はバイトだという嘘を貫くよりは正体を打ち明け、協力関係に持ち込むべきだと考えた結果だった。
 HAYATOとして使用するこのマンションのことはマネージャーと社長しか知らない。そして基本的にトキヤ以外には誰も訪れることはない。
 トキヤが部屋に置いて行った荷物を音也が見つけ、明日必要な衣装だったのに、勘違いして届けにきてしまった。
 ただ、それだけだった。元々HAYATOの正体を隠すため以上の思惑は微塵もなかったし、どれも偶然だったし、ただ音也が親切なだけだった。それなのに、気付いた時にはトキヤは音也を組み敷いていた。
 単純な音也は秘密を守るということに集中するあまりに他のことが疎かになる。
 嘘やごまかしの下手な音也は余計なことを言わず、黙って出てくることを知っていたから、何処へ行くのか絶対に言わなかったはずだ。
 音也が此処にいることは誰も知らない。

 一度だけ、黙りなさいと強く頬を張った。大きく瞳を開いた後、明らかに怯えた様子で音也は口を噤んだ。そんなつもりは、傷付けるつもりはないのだと言葉には出来なかったから、赤くなった頬から目尻にかけて優しく舐め上げ、瞳に至る直前、涙に辿り着いた。
 零れ落ちる涙をどんなに舐め取っても、あまやかな行為になどなりえなかった。音也は何も知らない、思いもよらない。疑うことを知らない、善良なだけのただのルームメイトを強引に抑えつけて怯えさせて、嘆きも懇願も聞くことはなく、無理矢理に暴いて、抱いた。
 いくつもいくつもつけた小さな赤い痕が霞むほど鮮やかな見慣れた橙の髪。投げ出された手首。逃がさないようにと強く握ったそこは自分の掌から指先にかけてと重なるような形に薄暗く変色している。ああ、痣になってしまうなとトキヤは思った。
 散々に自分が汚した身体をトキヤが持ち上げ、拭き清めても音也の四肢は脱力したまま、目覚めることはなかった。
 足枷をはめ、鎖を繋ぐ。こんなものはほんの数十分前までなかったし、考えつきもしなかった。しかし、どれだけの長さならば必要最低限なのか、どれだけの短さならば何処へも行けないのか、どれだけの強さならば逃げられないのか、冷静に考えながら買い揃えていた。
 自分がいない間に意識を取り戻したとしても、逃げ出すことなど出来ないと半ば確信していたけれど、それでも戻ってきた時、変わらない音也の姿を見て感じたのは安堵だった。
 音也がまだ此処にいる。だから、間違っているけれど、間違っていないと思った。音也を此処で繋いでおきたい。買い揃えた鎖は無駄ではない。

 音也はもう逃げられない。だからトキヤはもう一度、買い物に出かけることにした。扉を閉める直前、振り向いて、やはり音也がそこにいるという事実に口角を上げた。
 目覚めた音也は泣くだろうか、怒るだろうか。せめて、好きなものを食べさせてやろう。
 衝動的にこれだけのことをしてなお、何日もこうしてはおけないことをトキヤは分かっていた。己の冷静さが疎ましかった。こんな行為に、この部屋に永遠はない。



 * * *



 身じろぐだけで軋むような痛みが全身に走って、音也は呻きながら漸く意識を浮上させた。
 眠りなどという生やさしいものではなかった。意識を手放しそうになる度に、深く突き上げられた。痛みで強引に引き上げられ、顔をしかめて覚醒しても、涙で滲む視界にはその元凶であるトキヤしか映らなかった。
 強く握られて痣の出来た手首に視線を落とせば、指を絡め取られ、縋るようにと、背に回すようにと、いざなわれた感触が蘇る。
「なんで、こんな……こと」
 己のものではないような掠れた声に音也は身を竦ませる。悲鳴が嗚咽に変わって、何度許しを請うてもトキヤは行為を止めなかった。
 せめて、キャビネットに置かれた水を飲みたいと重い体を引きずり足を下ろせば、はめられた枷に繋がる鎖が音を立てて床に落ちた。振り向いて見た鎖の先は柱に巻き付けられ、いくつかの鍵が掛けられていた。
 音也が意識を失っている間に用意したのだろうか。鎖の長さは完璧に計算されていた。柱からベッド。その脇のキャビネット。柱から廊下のトイレ。その向かいのバスルーム。それだけの距離を足枷と鎖を引きずって音也は動くことができる。それ以上には、つまり部屋の外へは出られない。
 ふと視線を下げ、ゴミ箱の中身を目にした音也は脱力し、膝をついた。
 理解はまったく出来ないし、なにを言っていたのか、なにを乞うていたのかは分からないけれど、ただ、トキヤの瞳は本物だった。本気だった。
「わ、け、分かんない、よ……」
 ゴミ箱の底にぽつり、ぽつりと涙が落ちて、オレンジ色のプラスティック片に降りかかる。粉々に砕かれたかつて音也の持ち物だったそれ。助けを呼ぶことも出来ない。

 嗚咽を漏らす度に鎖が音を立てたけれど、音也には自分の心音と泣き声だけしか聞こえなかった。聞きたくなかった。






 (此処は出来心の檻、或いは永遠のない部屋)





(111115)