交差点の端で、雑踏の動きにつられるようにしてトキヤはふと足を止めた。
 スクリーンを見上げる人々の横顔。映り込んだ輝きがその瞳を鮮やかに彩る。HAYATOのミュージッククリップだった。
 HAYATOはとても、愛されている。煌めく照明の中、軽やかなステップで跳ね回る。
 画面の向こう、きらびやかなHAYATOの世界には悲しいことなどなにもない。綺麗なものばかり、幸せなことばかり。それを全身で享受して笑う。歌う。踊る。
 HAYATOの見せる感情は本物だ。HAYATOがそう感じ、そうして笑うから。HAYATOの表情に嘘はない。
 自分の心が軋むような感覚を誤魔化す為、トキヤは再び歩き出した。




simulatio.




「あ、おかえり」
 バイトお疲れ様、と笑んだ音也に挨拶を返し、早々に机に向かう。提出しなければならない課題がまだ残っている。
 HAYATOとしての仕事がどんなに多くても、それは未提出の理由にはならないし、なによりそんな怠惰は自分が許せない。

「音也?」
 気付けば眼前に音也がいた。にこにこと、だけどいつものようにうるさく話し掛けてはこない。
 不思議に思ったその瞬間、音也の唇がはやと、と動く。だから、ああこれは夢なのだと気付いた。
 HAYATOに見えているのならば笑わなければいけない。能天気に、HAYATOらしく。一ノ瀬トキヤが絶対に見せないような笑顔で。
 夢だと分かっていても、反射的にHAYATOであろうとする自分に内心で苦笑しながらも、頬を緩めて表情を作る。言わなければ。簡単な言葉、HAYATOらしい言葉。おはやっほー! どうしたのかにゃあ〜?
 しかしトキヤの言葉は途中で音也に遮られる。
「そんなの、HAYATOじゃないじゃん。トキヤじゃん」
「な……にを、言って」
「HAYATOはもっとうまく笑うよ。きらきら笑うよ。トキヤには出来ない」
 ばいばい。すとんと表情をなくし、背を向けた音也を追おうと足を踏み出した瞬間にびくりと身体が跳ねてトキヤは覚醒した。白紙のプリントの上に転がったペンの輪郭がぼやけている。嫌な汗をかいていた。
「大丈夫?」
 目頭を押さえたトキヤを後ろから覗き込むようにして音也が声をかける。
「疲れてるなら寝たほうが良いよ? 課題なら明日すっごい早起きしてやるとか。しゅーちゅー出来ないと良い曲も出来ませんよ。でしょ?」
 トキヤが普段音也に言うような口調を真似た軽口にみせながらも、その瞳は真摯なものだった。
「大丈夫。ありがとうございます」
 微笑んで、ふと音也の後ろに視線を移せば先日収録したバラエティ番組が映し出されていた。
「それ、今日のお昼の番組ですよね?」
「あ、うん。翔が日向先生出てるから見ろって録画したの貸してくれたんだ」
 課題をするトキヤに気を使ってヘッドフォンが接続されたテレビから音声は聞こえない。それでも画面に映るHAYATOがなんと言っているのか、トキヤは知っていた。
 音也にとっての認識は、HAYATOはトキヤの双子の兄であると分かっていても、その瞳がHAYATOを映し出していることが少しトキヤには居心地が悪かった。
「さすが双子だよね。でもトキヤと顔は一緒なのにHAYATOのほうが元気な感じなのがいつ見ても不思議。翔の弟もね、写メ見せてもらったけどやっぱりそっくりだったんだ。弟の薫君のほうが落ち着いてるらしいから、双子でも弟は性格が落ち着くのかなぁ。って、これじゃ翔が落ち着いてないみたいだよね」
 翔にはないしょ、な。人差し指を唇に当て、音也は肩をすくめる。
 甘いと思った。少し幼さの残る、しかし整った顔いっぱいに浮かべた笑みも、悪戯っぽく囁いた声色も、明るい髪の色も、トキヤは全部、甘いと思った。
「音也」
「なに?」
 音也の仕草のひとつひとつが、愛されるためにだけあるような、甘いものに思えた。だから間違ってしまった。この音也は現実だ。夢の世界のような酷いことはきっと言わない。この音也なら甘い、望んだ優しい言葉をくれるのではないかと、考えてしまった。
「仮定、そう、もしもの話です。ある日突然HAYATOがいなくなったとして、私が、一ノ瀬トキヤがHAYATOを演じているのだとしたら、貴方は軽蔑しますか?」
「どうして? HAYATOはHAYATOじゃん」
「だって普段の一ノ瀬トキヤとHAYATOはあまりにも別人です。HAYATOが浮かべる笑顔を私は演じているだけ、全部嘘だということになるんですよ」
 仮定として語ったそれは紛れもなくトキヤにとっての事実だった。HAYATOが人々に愛され受け入れられるほどに、一ノ瀬トキヤとしての自分の存在がHAYATOを求める人を裏切り続けている。
 突然の話題に首を傾げながら、音也は考えを口にする。
「うーん、俺が、そうだなぁ。明るく馬鹿みたいに振る舞うのがわざとで、本当はすっごく暗い性格で、笑うのも本当は面倒くさいなぁって思ってて、サッカーもそんなに好きじゃなかったとするよね。でも俺は孤児だから誰かに助けてもらわなくちゃ生きていけなかった。俺のこと育ててくれたおばさんは優しかったし、施設のみんなとも仲良かったよ。だけど俺が暗くていじいじしたイットキオトヤクンだったら違ったかもしれない。でも、こうして笑っていたら、明るく元気なイットキオトヤクンだけをみんな見てくれる。だから、トキヤがHAYATOの振りをしていたってHAYATOはHAYATOだよ」
 もしもの話ね。トキヤの真似っこだよ、と音也は笑った。
「そう、ですか。おかしなことを聞いてすみませんでした」
 トキヤの口は勝手に動いた。HAYATOでいる時と同じように、一ノ瀬トキヤとして当然の返答、当然の表情を勝手に作っていた。
「ううん、でも本当に疲れてるなら早く休んだほうがいいよ? 気になるならテレビも電気も消すし」
「いえ、ありがとうございます」
 何を望んでいたんだろうとトキヤは思った。望んだ優しい言葉とはなんだったのだろう。確かに現実の音也は優しかった。夢の世界で拒絶されたようなことは起きなかった。HAYATOなんかじゃないと断罪されるのは怖かった。だけど、だけど自分は、何を求めていたんだろう。
 HAYATOとトキヤは違いすぎた。HAYATOであること、HAYATOでいること、HAYATOを演じていることに歪みを感じていた。
 早乙女学園に入る前から自分が揺らいでいることにトキヤは気付いていた。一十木音也に出会ったことで、それは明確な輪郭をもってトキヤの心を覆っていた。
 アイドルである為にトキヤはHAYATOを作り上げた。愛される為に作り上げた。愛される為にだけ、組まれた偶像。
 音也はトキヤが必死で組み上げたそのアイドル像をただあるがままにいるだけで体現していた。愛されるように、愛される為にあるような笑顔をトキヤに向けた。
 本物の、アイドルに、出会ってしまった。
 ずっと偶像を演じてきた自分は、多くの人を欺き続けてきた自分は、アイドルになんてなれやしないのだと、そこにいるだけで愛されてしかるべしという存在に出会って思い知った。
 心配そうに見つめる瞳も、気遣うための軽口も、目の前にいる優しい存在が、痛かった。

 ――もしもトキヤがHAYATOの奥にいたって、見えるものがHAYATOなら、俺にとってそれはHAYATOだよ。俺はその向こうにいるトキヤを見ないよ。

 HAYATOの存在を認めるその言葉は、間違いなくトキヤの中のHAYATOの存在を救ったけれど、同時にHAYATOという虚像の中にいるトキヤを掬い上げなかった。





simulatio. (真似る、見せかけ、虚偽)
(111027)