きしり、と寝台が鳴った。その音が場違いなほどに軽やかだったのは自分にのし掛かる男の薄い体躯の所為だろうか。どこか他人事のようにそんなことを考えながら國常路は口を開く。
「――ヴァイスマン。……アドルフ・K・ヴァイスマン」
 視界の半分は男に埋められてしまった。見上げる白い天井よりもなお目映い、銀にも近い髪が落ち、表情は窺えない。相手はひどく思い詰めているようだったから、その理由を知っているから、つとめて口調は穏やかなものにした。
 一音一音、区切りながらその名を呼べば影になっていた表情が震え、一度唇を噛み締めたように見える。
「中尉」
 対称的だと思った。自分は常に彼の名を呼ぶ。それが姓であると理解はしている。彼の姉もまたヴァイスマンであるのに、あくまでも彼の名を呼ぶつもりでいる。
 けれど彼が自分を呼ぶ時はいつだってこうだ。これから先、尉官から佐官、将官クラスになったとしても、順に彼はこうして名の上に冠された身分をもって自分を呼ぶのだろうか。
「どうした?」
「ぼくはね、こんなことになるまで、知らなかったんだ。ぼくらが戦争をしているんだって」




holder Abendstern




 駐独武官であった経験を買われ、極秘裏に進められる研究への特務機関の責任者としてこの地に降り立ったものの、元々は気乗りがしなかった。
 日露戦争での勝利に固執したまま、真珠湾での奇襲の成功により、浮かされたように幕開けてしまったこの戦いは、海軍の大艦巨砲主義も、陸軍の無根拠な精神論も、もう意味を為さない。だがこの期に及んでなお、陸軍上層部は一歩でも海軍を出し抜くべく石盤の力などというものに頼ろうとし、國常路をこの国へ遣わせた。
 陸軍と海軍の軋轢もそのままに、緊迫した戦局を異端の力で打破出来ると盲信する上層部が気に入らなかったし、そもそも実践登用への最終的な決定権は一介の中尉でしかない國常路の手にはない。
 しかし國常路は出逢ってしまった。不可思議な力を解析する、あまりにも優秀であまりにも無邪気な研究者に。彼をたしなめ、見守り導くその姉に。
 彼らとの日々は優しかった。みんなが幸せになる世界、そんなものを夢想する無邪気な男と共にいることは、小さな優しい国にいるのと同じだった。
「……ヴァイスマン」
「びっくりしたんだ。知らないことは世界にたくさんあるけれど、なんだって学べば理解することが出来たのに。鼓動が止まれば、血液が巡らない。人は死ぬ。ぼくは知っていたのに解ってはいなかった。鼓動を失った身体は冷たくなっていく。ぼくの腕の中で、姉さんは物体になっていったんだ」
 ひどく白い、朝の陽射しの中だった。倒壊した家屋が未だ煙を上げ続ける街を國常路は駆けた。剥がれ落ちた煉瓦を踏み、立ち尽くした國常路が見たのは十字架の中心にいる姉弟の姿だった。
 剥き出しになった柱の作る影が十字架のように見えたのは天にそびえた光の剣の姿を先に目にしてしまった所為だったのだろうか。
 彼女の葬儀は國常路が取り仕切った。ヴァイスマンは受け入れがたい現実から目を背けるように陽の光が射すことのない研究所の地下で、まるで羊水に浸されたようなこの場所で、身体を丸めて眠り続けていたからだ。
 すべてが終わった後、國常路が訪れることを知っていたかのように不意にヴァイスマンは目を覚ました。淋しい子供の瞳だった。
「ごめんなさい。一度だけ、今日だけでいいんだ」
 姉を、身近な女性を亡くした男が、その喪失感を埋める為の誰かを求めたとして、しかし彼には他に親しい者などいなかったのなら、ひとりの異国の友人に縋ろうとすることを誰が咎められるだろう。
 特務を帯びてこの地に在っても、未だ中尉である。士官学校時代にも、任官してからも、そういうことはあった。上官の命令は絶対だった。
 だから、受け入れるならば自分でいいと思った。國常路にとってヴァイスマンとはどんなに厳しい戦局においても友人であった。
 國常路は手を伸ばす。ヴァイスマンの髪を辿り、頭の形にてのひらを合わせる。
「構わん。自分ならば」
 言葉の途中で胸に落ちてきた頭をいだけば震える手が國常路の軍装を掴む。銀の髪にも白い肌にも薄青い瞳にも似つかわしい、清廉な指先だった。


 ――中尉。
 國常路は瞳を閉じる。
 ――中尉さん、ねぇ中尉、ぼくはね。
 変わらぬ声、変わらぬ音で自分を呼ぶ。戦争が終わり、國常路が陸軍軍人でなくなっても。中尉でなくなっても。王となった今でも。
 不変の属性など、元より要らなかったのだ。姿以上にずっと、変わらない。
 自分が彼のことを姓であるのにも関わらずまるで彼だけを意味するように呼び続けたように、確固として。
 夕暮れに照らされた薄い背に投げかけた言葉は、逃げるのかと問うた言葉は自分にも向けられていたのだと國常路は思う。受け入れたつもりで、許容したつもりで、あの時、あの瞬間から一歩も進んでいないのは、どちらだろう。
 不変の属性など、元より要らなかったのだ。幾年が過ぎようと、彼が不変でありたかったのは、不変であれと願っていたのは、彼が王となる前のほんの一瞬で良かったのだから。ひとりの肉親とひとりの友人との、ささやかな一日。その優秀な頭脳でこどものような夢を見る。それだけが、不変たらんと、止まってしまえば、留めてしまえたら、良かったのだ。
 しかしヴァイスマンの世界は彼にとっての世界の終わりのままで、終わってしまったまま、止まり続ける。
 だから國常路もまた王になった。ヴァイスマンの夢は叶わない。強大すぎる力を持つ王に友は出来ない。臣下は友にはなれない。

 結局あの時はただ指先を絡めて眠っただけだった。
 あれが、あの日の夜だけが生涯一度の、そのような意味を持った触れ合いだったと言えば人は笑うだろうか。
 誰とも触れ合わず、誰にも心動かされず、ひどく静かで凪いだ海のような年月だった。
 孤独ではなかった。ヴァイスマンは國常路の統べる地を臨み、空を巡り続けていたのだから。互いが孤高の王であり、互いがたったひとりの友であった。
 終わり続ける世界の中で二人、孤高ではあれ孤独では、なかった。





(130104)