あの日、手を伸ばした日のことを覚えている。

 凰壮はゲームの画面から目を離さなかったし、手の中のコントローラーのボタンを押し間違えることもなかった。
 その後ろ姿をベッドに寝そべって竜持は眺めていた。
 ワックスのひとつもつけていない休日の凰壮は、やはり自分と同じ髪質なのだなと、まるい頭の形にそって流れる髪の様子を見ていた。
 竜持の部屋にゲーム機はない。テレビ台の下に並ぶいくつかのハードの名前や今凰壮がプレイしている格闘ゲームも概要は知っているけれど、竜持自身は持っていない。
 小さい頃、三つ子の持ち物はみな等しかった。共有して済むものをいちいち欲しがるような無駄なわがままを発揮することはなかったし、個人で必要なものはただ見分けをつけるために色が違うだけの同じものを揃えていた。 
 虎太が家を出てから数年。竜持は数学、凰壮は柔道、それぞれにやりたいことを見つけ、同様にそれぞれ別に人付き合いをし、部屋も持ち物も様変わりをした。
 竜持がベッドに寝そべってその後ろ姿を眺めていようと凰壮は画面のキャラクターを操ることに夢中だった。ただ同じ部屋にいるだけで気にしない。ずっと、当たり前のように何年もそうして一緒にいたから、一人部屋に別れてからも互いの空間を行き来することにも、他人であれば不躾な態度で部屋に居座ることも、何も問題はなかった。
 凰壮の部屋は多分、自分の部屋よりもずっと高校生らしいと竜持は思う。
 だから、不意にベッドの下を覗いてみたのだ。高校生という記号の通り、それらしいものを隠しているのではないかと。
 そして引き出してみた雑誌を広げ、言ってみたのだ。
「一人でする時、こういうの見てるんですか」
 ねぇ、凰壮クン?と、からかうように。あれが最初だった。
 いつでも手が引けるように、冗談ですよと笑えるように。それでも手を伸ばしてみた、あの日が始まりだった。




たったひとつのぼくの不条理




 凰壮は、優しい。
 自分達三人の兄弟のうち、一番欠陥がないのは凰壮だろうと竜持は思っている。
 凰壮自身はそうは思っていないし、むしろ凰壮からすれば社会と一番うまく折り合えるのは竜持だと小学生の頃から考えていたけれど、実際竜持の目に映る凰壮は仲良くなった人間と笑い合い、コミュニティの中での相応しい立ち位置にごく自然にあれる。竜持にとって、凰壮こそが外の世界に一番近い存在だった。
 人間関係において虎太はひどく不器用で言葉足らずだし、竜持は己の丁寧な物腰は結局父親の真似でしかないと自認しているし、その物腰が鎧だということにも自覚的だった。
 ぶっきらぼうで乱暴で見栄っ張りで、しかし凰壮は優しい。

 男同士であるとか、兄弟であるとか、すべて飛び越えてこんなことをしてしまっているけれど不意に、好きでいるのは自分だけなのではないかと思う時がある。
 愛されていないとは思わない。だって自分達は愛されることに慣れている。愛されているという事実への理解力が正しくある。
 三つ子であるから普通の兄弟のように明確なわけではないけれど、弟であるはずの凰壮のほうが虎太や竜持に対して分け隔てなく愛を注いでいるようなきらいがある。まるで兄のように。
 自分達は三つ子で、同じ顔で、だけど一人一人は確実に違う。違うからこそ二人に平等に優しい凰壮は、たとえばあの日、少し丸めたあの背中に手を伸ばしたのが虎太だとしても、応えたのではないか。そんなことを考えてしまう。
 たとえ竜持の知らないところで、否、目の前でだろうと、虎太と凰壮が自分と同じように淫らがましい行為に耽っていたとしても、構わないのではないかと竜持は頭のどこかで思っている。姉や妹であったなら違うだろうけれど、どんなことをしたって兄弟である自分達は、男同士でしかない。
 自分の倫理観はそういう面では冷静で、少しずれているのだろうと自覚している。

「ねぇ凰壮クン、知ってます? 一回の射精でどれだけの精子が放出されるのか」
「はぁ?」
「今も、何十億の精子が死んでしまったんでしょうね」
 知らねぇしと背を向けた凰壮は自身をティッシュで拭う。その背に向けて竜持は言う。
「自分でやっても、ゴムに出しても、死んじゃってるんですよ。それから勿論、こんな風に男同士でやっても」
 あ、ティッシュ次貸して下さいと手を伸ばせば背中越しに渡される。
「なにが言いたいんだよ?」
「僕らがこうしてセックスするのも、オナニーと一緒なのかなって思ったんですよ」
「お前さぁ、ムードもなんにもいらねぇけど、たまにそういうこと言うのだけはやめろよな」
 凰壮は、優しい。きちんと愛してくれている。
 だけどたまに、本当に時々、なんでもない一瞬に、もっともっと愛されたい。欲しがってほしいと思ってしまう自分がいることに竜持は気付いている。
 冗談で済むように、たとえばもうやめようと言われても構わないように、いつだって元の兄弟に戻れるように立ち回る自分が、だけどもっと与えられたいし欲しがってほしいと願っている。
「凰壮クンのそういう倫理感がまともで、まるでオニイチャンみたいなところ、好きですよ」
「普段は末っ子扱いのくせによ。ばかじゃねーの」
 たしなめられるようなことを、わざわざ試すように言ってみて、それから笑って見せる。
 丁寧な口調も数学好きも父親譲りの竜持だったが、口癖だけは真似なかった。不条理ですねぇ、それだけはあまり言わなかった。その竜持が凰壮に関しての自分にだけ、不条理だと思う。愛されたいけど、壊れたくはない。
 あの日、冗談めかして手を伸ばしたくせに、きっと竜持こそが誰よりも凰壮と、いつまでも兄弟でありたかった。





(120722)