沸かされた湯がくつくつと泡をのぼらせていて、その湯気が黒尾の横顔を少しだけ隠していた。根元を少し切り落とした菜の花を一気に入れる。菜の花の束を掴む黒尾の指は長い。菜の花で鍋はいっぱいになる。 ほんとうは日常生活にそんなに大きな鍋は必要がない。 茹でた菜の花をボウルにあけて水にさらす。冷たいシンクに熱湯が落ちて白い湯気が上がり、ますます黒尾の表情を隠した。 冷めた菜の花を切って再びボウルに戻す。その端で練り辛子、だし、塩、醤油を全て目分量で混ぜた後に菜の花と和える。 体感幸福論 11月26日。音駒と梟谷の仲間達、集められるだけを集めた木兎主催のパーティーが行われた。 木兎いわく、黒尾と赤葦の真ん中バースデー。つまりは黒尾と赤葦の誕生日祝いにかこつけて、単純にはしゃぐ口実、集まる理由であったわけだけれど。それがちょうど、先週のことだった。 菜の花のからし和えも、さんまの塩焼きも、木兎が買ってきた。パーティーメニューにしては渋いなと皆で笑った。そのくせ木兎はケーキを買ってくるのを忘れていたので赤葦が近所のケーキ屋まで走らされたのは、副主将であった頃の悪癖の名残かもしれない。俺はいつまでも主将のフォローですかとまずは木兎の顔面にケーキをお見舞いした。 さほど広くはないリビングでガタイの良い男達が入れ替わり立ち替わり、騒いで、帰っていった。 二人の休みが重なっても取り立てて予定はなく、スマホのアラームも切って目が覚めるまで眠る。そうして、少しばかり自堕落に過ごすだろう、週末だった。 こうばしい香りに誘われて覚醒し、瞼を擦りながらキッチンを覗けば、予定はないと言っていた黒尾が完璧な朝餉を作っていた。 「おはよう、ちょうど良かった、出来たところだぞ」 寝ぼけた頭に黒尾の声が届く。 誕生日は明後日ですよ。言い掛けて口を噤んだ。 学年で言えばひとつ。年の差でもひとつ。ただ、黒尾の誕生日から赤葦の誕生日までの二週間と少しだけ、二歳の差が生まれる。 それだけの差で、それだけの差なのに黒尾は赤葦より先に大人になる。 当然ながら赤葦より先に高校を卒業し大学に入り、卒業し、社会人になった。 赤葦の預かり知らぬところで黒尾は傷つき、もがき、それでも笑って帰ってくる。 ほんの時たま、どうしようもなくなる時がある。キャパオーバーだと、黒尾は笑って言う。そんな時には一日、甲斐甲斐しいまでに赤葦の世話を焼く。それこそ赤葦が一歩も動かずとも、一言も言葉を発さずともいい程に。 朝食も昼食もおやつも、もちろん夕食も黒尾が作る。赤葦の好物と好みの味付け。 風呂だって黒尾が入れる。あまりの甲斐甲斐しさにまるで犬か猫のようだと最初の頃には思った。逆ですよ、と。 赤葦の頭はいい形だなと言いながらシャンプーを泡立てる指はしなやかで、そして高校時代の名残を少しだけ残している。何千回もボールを触ってきた指先。 流すから目を閉じろと言われて赤葦は素直に応じる。恐ろしい話だと思う。視覚を自ら閉ざして、シャワーの音だけが響く浴室。 ごめん、ありがとなと、声が水音に混じるから赤葦は小さくため息を吐いた。聞こえていないつもりなら馬鹿にしないで下さい。猫もそうかもしれませんけど、猛禽類の耳もかなり優秀なんです。 「殊勝な黒尾さんも好きですよ」 「赤葦ってば俺もう主将じゃないし」 振り向いて言えば黒尾は肩を竦めた。 「親父ギャグじゃないですか。本当、黒尾さんっておっさんですよね」 「いっこしか違わないのにオニーサンショック!」 「ふたつですよ。明後日までは俺の方がふたつ、年下ですからね」 だから、甘やかされてあげます。 水切りかごで存在感を放つ鍋とボウル。ほんとうは、どちらも二人の日常生活にはそれほどの大きさは必要ない。大きな鍋も大きなボウルも、赤葦の為にある。 ▲ (150316)
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