アスパシアに母はいなかった。自分を生んですぐに亡くなったのだと聞いた。しかし大きくなるにつれてその母に似てくると父親であるシャザーヌが目を細めるので、鏡に映る自分を見る度に見守られているような気がしていたし、その面影を知っているような気持ちになった。
 だから、とりわけ寂しいだとか、自分が可哀想な子供なのだとか、そういうありきたりな感情を抱いたことはなかった。

 しかし、この日だけは少し憂鬱だと思っていた。
 授業参観。めいめいに着飾った母親達が並んで子供達の様子を見つめる。母親達に挟まれて、少しばかり居心地悪そうな父親がそこに立つ場合もあるけれど。
 隣の席のレジェッタがそわそわとし始めたのでアスパシアが振り向いて見れば、レジェッタと同じ、鮮やかな橙の髪をした綺麗な女性が教室に入って周囲の母親達に挨拶をしているところだった。
 シャザーヌは王で、日々の執務がある。一人娘とは言え、授業参観の為だけにわざわざ学校まで足を運ぶことが出来るほどのんびりした国ではない。
 少し緊張した面持ちで普段よりも真面目に授業を受けている周りの生徒を見ながらアスパシアは小さくため息を吐いた。誰も来ないから憂鬱なわけじゃないわ。




小春日和




 アスパシアの憂鬱は小学校に入学してすぐの授業参観に起因する。あの日、誰もが浮き足立つような雰囲気の教室に、まだ十歳ほどの見た目しかなかったウンバラが来たのだ。その時のウンバラは本来なら同じく小学校に通っているような見た目だったし、兄と言うには肌の色が違いすぎた。
 周りの子供達や他の母親達がウンバラを奇異なものを見るような目で見るのが嫌だった。
 ウンバラはウンバラで、まだ子供みたいな見た目なのに、きちんとお付き精霊としての役目をまっとうしていて、誰より一緒にいてくれる私の精霊なのに。そう思うのに、あれは自分のお付きの精霊なのだと胸を張って言うにはまだアスパシアは幼かった。

「おかえりなさいませ、姫様」
 アシパシアは帰宅した自分をいつものように出迎えたウンバラに向かって、もう来なくて良いと、そう小さく呟いた。
 俯いたままのアスパシアの様子でウンバラは事情を察し、恭しく頭を下げた。
「出過ぎた真似を、しましたね。申し訳ありません」

 あれから五年。
 アスパシアは授業参観の度にあの日のことを思い出した。あの後、おやつにしましょうと笑ったウンバラの顔を見て、自分がこの精霊を酷く傷付けたのだと思った。ウンバラはいつものように笑っていたけれど、その後だっていつもと変わりなかったけれど、確かにアスパシアの胸は痛んだ。
 今もまだ子供なのだけれど、幼かったなと思う。

 今日は小学生最後の授業参観だ。普段はぼんやりしているような子だって母親に見てもらうべく真面目に授業を受けているし、恐ろしいほど真っ直ぐに挙手をする。
 羨んだりすることはないけれど、もしも褒めてもらえるならば自分もきっと同じように張り切っているのだろうなとアスパシアが教科書に目を落とした時、伸びてきた指がつんつんと肩を叩いた。
「なによレジェッタ。あんたお母様来てるんだから真面目にやりなさいよ」
 立てた教科書で顔を隠して、小声で諫めるように隣を向けば違う違うとレジェッタは首を振る。
「あれ、お前のねーちゃんか? すっげぇかわいいな!」
 レジェッタの視線を追うとその先にいるのは教室に入らないまま、廊下から様子を窺うようにしている少女。
 アスパシアの目が大きく開かれる。
 そこにいたのは肌の色が灰色で、髪の毛が白の、アスパシアそっくりな少女……の姿をしたウンバラだった。

 授業が終わって、アスパシアはレジェッタを始めとする友人達からの質問攻めにあった。それから逃げ出すように校舎を出たけれどその質問の端々に、綺麗なお姉さんだと、素敵だと皆の羨望が滲んでいて、決して嫌な気持ちではなかった。
 校門で待っていたウンバラはアスパシアが息を切らせて駈けてくるのを見て立ち上がる。それまで決して喋らなかったし、挨拶をされてもにっこり笑って会釈を返すだけだった。
「ちょっと、あんた……何やってんの?」
「えーと、小学生最後の授業参観という姫様の勇姿をこの目に収めておきたくて、ですかね?」
 校門で待ち合わせ、連れ立って帰る他の親子にならうようにして二人も揃って歩き出す。
「そうじゃなくて、なんであんた、その、女の子なのよ?」
「姫様に姉上などおられないと大人は皆知ってますけど、まぁお友達にはバレないかなと。わたくしは精霊ですから、性別なんて思いのままなんですよ。年齢操作なんて高等な技を使うにはまだちょっと未熟なので、見た目は元のまま、十五歳くらいで失礼してますけど。あと声も変えるわけにはいかなくてですねぇ」
 稀に見る美声なもので。そうふざけるように言った後、ウンバラは途端に真面目な顔をして頭を下げた。
「初めての参観日には出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした。あの頃はまだこの技も使えないほどのひよっこ精霊でしたので、姫様には嫌な思いをさせてしまいました」
「ばか」
 アスパシアは少しだけ泣きそうになった。この精霊は全部知っている。ずっと謝りたかったのは自分のほうなのに、いつも先回りされてしまう。
「なんで私なのよ。未来の私はそうなるの?」
「ええ。かわいらしいでしょう?」
「まぁ、レジェッタも褒めてたわ」
「ほほう、そのレジェッタとやら……要注意ですね。未来の姫様の愛らしさに今から目をつけるとは」
「でもちょっとやりすぎじゃない? 私がそんな風に育つとは限らないでしょ」
「いいえ、必ずかわいらしくなります。美人にもなります。ウンバラは知っておりますので。この慎ましやかなまな板のような胸も未来の姫様の魅力っぐふぁ!」
 失礼なことを言い放つ精霊を殴り飛ばしてアスパシアは駆け出した。この変態ロリコン精霊。早く帰らないと変身が解けてますます変態になっちゃうわよ。今のあんた、高等部のセーラー服姿なんだから。
 ランドセルがカタカタと音を立ててまるで笑うみたいだから楽しくなる。
「ありがとね、ウンバラ!」
 それから、ごめんね。曲がり角で立ち止まり、頬を抑える精霊に笑顔を見せれば、相手も同じく、帰ったらおやつにしましょうと微笑んだ。





(100903)
授業参観に来るウンバラが書きたかったんです。
お父様やお母様の代わりになることは出来ないけれど、「授業参観における姫様にとっての誰か」になれないかなぁってウンバラなりに5年考えた結果がこれ。